Dreaming Moon-夢見る月-

すみれ色の世界を愛でながら、しばし夢に浸る…素敵な時間、届けます!!

【春の雪創作】華やかな迷宮④

「兄さま、もっと先に行ってみましょう! きれいなところね」
湖畔の小さな森の中を歩く繁邦と房子。
いつになくはしゃいでいる房子を繁邦が優しく見つめていると、彼女が急に走り出す。
「房子、今日はとても元気だね。なんだか見違えたみたいだ」
「だって、楽しいんですもの。奥にはきれいな草原があるんですって。早く見てみたいわ」
そんな話をしていると、房子の足音がだんだん遠ざかり…次第に森の霧が深くなっていく。
「房子、どこだ? 房子?」
「兄さま、こっちよ! ほら」
声のする方向に歩みを進めると、ゆっくりと目の前に緑が広がる。まるで絵の世界に迷いこんだような美しさだ。
木の陰から房子がひょっこり姿を覗かせる。白いワンピース姿がとても眩しく映った。
「驚いた。いきなり走っていったりして、びっくりするじゃないか」
「ごめんなさい。…兄さまを驚かせたかったの」
房子が身を寄せてくる。いつになく積極的な彼女に、繁邦は少し驚きながら髪を撫でた。
「どうしたんだい? 急に甘えたりして…」
「ずっとこうしていたいわ。兄さまと一緒にいると安心するの…」
彼女の潤んだような眼差しが繁邦の心を揺さぶる。それは遠戚の兄として感じる思いなのか、それともー

「房子…!」
ハッと目を覚ました繁邦は辺りを見回す。自室の机が目に入り、夢だったと気づいた。
(夢か…やけに心に残る内容だったな)
カーテンを開けると、明るい光が差し込む。軽く伸びをして身支度を整えていると、ドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
「おはようございます、坊っちゃま。旦那さまがお呼びです。リビングに来るようにと」
メイドからは少し焦った様子が感じられた。彼女の様子から繁邦は父の姿を想像した。…正直、気は進まない。
「わかった、すぐに行く。教えてくれてありがとう」
メイドは一礼して立ち去った。その様子を見届けながら、繁邦は部屋を出て階下へ降りていった。

「おはようございます、父さん。…遅れてすみません」
リビングでは隼人が新聞を読んでいた。母の小夜子が心配そうにふたりを見つめている。
「そこに座りなさい。…お前、進路希望の調査で美大志望と書いたそうだな。担任の先生から連絡があった。一体どういうことなんだ」
一呼吸置いて、繁邦は口を開いた。
「僕の絵を美術の先生が褒めてくれたんです。このまま置いておくのはもったいない、美大で勉強して磨くべきだと。僕も本当は美術を勉強したいとずっと思っていたんです」
隼人のこめかみがピクリと動く。苛立っているのは明らかだが、繁邦はしっかりと彼の顔を見据えた。
「美術の勉強だと?! そんなもの何の役に立つ。お前は本多家の後継ぎなんだぞ。勉強もせずに絵を描くなど言語道断だ」
「…僕は僕の人生を生きたい。好きなことを学びたいのです。許してくれないのなら、僕は出ていく。働きながら絵を勉強する」
「そんな、出ていくだなんて…! お父様はあなたを心配しているのよ。落ち着いてよく考えなさい。学校の成績だって悪くないのだから…。あなたは立派な弁護士になって、お父様の後継ぎとして務めを果たすのよ」
「母さん…」
「あまり心配をかけないでちょうだい。あなた、何かあったの?」
「別に…」繁邦は俯いた。
「とにかく、美大なんて到底許されない。学校には俺から電話を入れておく」
「父さん! そんな…」
「親に楯突くことなど考えないことだ。お前もいずれわかるだろう。親の言うことが正しいと」
苛立った様子で、隼人はリビングを出ていった。

自室に戻った繁邦は、ため息をついて部屋に並ぶ参考書を見上げた。
(…僕は自分で人生を選ぶことさえできないのか)
机の上にはスケッチブックがある。彼はそれを鍵のかかる箱へ仕舞った。
(大学に合格すれば、絵を描くことぐらいは許されるだろう。それまでは我慢して…)
鍵をかけた箱を押し入れの奥に入れて、繁邦は大きくため息をついた。そしてベッドに横たわり、目を閉じる。
(房子…)
繁邦は今朝がたの夢を思いだした。夢だというのに、房子の潤んだ眼差しが心から離れなかった。
(あの子は確か16だったな。女学校を出ればどこかの家に嫁ぐのだろうか…)
ふと、切ない気持ちが心によぎる。妹のように思っていた彼女の存在が徐々に変わってきているのを繁邦は感じていた。

一方その頃、房子はるり子の家を訪ねていた。
「あら、いらっしゃい。学校はもう終わったの?」
「今日はお昼までだったの。少し、るりねえさまとお話したくて…」
「…そんなかしこまって、何かあったの?」
応接間のソファーでふたりは向き合った。房子は心なしかもじもじしている。
「あのね…お母さまには内緒にしてくれる?」
「ええ、いいわよ。私とあなたの間だけの話にしておくわ」
「ありがとう。…わたし、好きなひとができたの。その人を思うと、胸が苦しくて…。子ども扱いされると切ないような気持ちになるの」
顔を赤くしている房子を見て、るり子は優しく微笑んだ。
「…あなたも大人になったのね。その方はお母さまも知っている方なの?言いたくなければ言わなくていいけれど」
房子は小さく頷いた。
「遠い親戚にあたる方なの。本多さんのおうちのご子息で…お姉さまもご存知?」
本多さん、と聞いた瞬間、るり子の目が光った。今までの柔らかな雰囲気とは違う様子に、房子は戸惑う。
「るりねえさま…? どうなさったの?」
「…大丈夫よ、少し昔のことを思い出しただけ。本多さんは私が昔働いてたお店の常連だったの。息子さんのことはあまり知らなかったけれど」
「そうだったのね…おじさまとるりねえさまが」
「昔の話よ。…女学校を出てすぐくらいの頃だったかしら。マダムが本多さんと親しくて、私のことも可愛がってくれたわ。まだ若くて、何も知らなかった頃よ。それより、息子さんはどんな方なの?」
房子の頬が少し赤くなった。
「お名前は繁邦さんというの。とても優しくて真面目な、お兄さんのような方よ。もうすぐ大学受験が近くて、あまりゆっくりお話はできないのだけど、一緒にいると幸せなの。ずっとそばにいたいって…」
照れくさそうにしている房子をるり子は優しく見つめる。しかし、彼女は全く別の事を考えていた。
(この子をうまく使えば、あの人に近づけるかもしれない。まずは外堀を埋めていかなきゃね)
胸の奥にくすぶる思いを隠し、るり子は房子の髪を撫でた。
「…あなたも恋をする年頃になったってことよ。妹として思ってもらうのもいいけれど、それだけじゃね。ちゃんと女の子として、振り向いてもらいたいでしょう?」
「それはそうだけど…どうすればいいか」
不安そうな房子に対して、るり子はにっこり微笑んだ。
「いい方法があるわ。今度のお休みにまたうちへいらっしゃい。お茶でも飲みながらゆっくり話しましょう?」
優しい声色の中に漂うなんとも言えない色香が、少しずつ房子を変えていく。不思議な予感が彼女を包んでいた…